本質主義(essentialism)の何が問題なのか。その4つの側面について(Phillips 2010)

本質主義(essentialism)とは

この記事では、Phillips(2010)の『What’s wrong with Essentialism?.(本質主義の何が問題なのか)』という短い論文で紹介されていた、本質主義の4つの側面について紹介します。

 

本質主義という言葉について聞いたことがある人は多いと思います。

本質主義は、「本質(essence)」という言葉にもあるとおり、ある集団に本質的に備わっている性質があるととらえる考え方という意味でよく使われます。

例えば「日本人は集団主義的だ」とか、「日本人はやっぱり温泉好きだよね」とか「女性は感情的だ」など、「日本人」「アメリカ人」「女性」などの集団に、「集団主義」「温泉好き」「感情的」ある性質が存在すると考えるものです。

 

ただ、本質主義を批判する論文は複数目にしたことがありますが、「私は本質主義の立場から議論します」という人を聞いたことが私自身はありません。

本質主義は批判されるために存在する用語のような気がしないでもないぐらいです。

 

「日本人は集団主義だ」というのは本質主義だというのはわかるのですが、「日本人は集団主義的な行動をとることが多い」というのは本質主義になるのでしょうか?

さらにいうと「日本人」というカテゴリーを使って、その特徴を探る試み自体も、本質主義的と言われかねないのでしょうか?

ただ、カテゴリーの使用を否定しまうと、何も調べられなくなるのでは?ともやもやしていました。

 

Phillips(2010)では、多面的に本質主義を考えることで、本質主義について視野を広げようとしています。

 

本質主義(essentialism)の4つの側面

Phillips(2010)は、本質主義を以下の4つの側面に分けて考えています。

  1. ある性質が特定のカテゴリーに属する全員にあてはまると考えること
  2. その性質がカテゴリーに属するものだと考えること
  3. 政治活動のテーマ・主題として、集団性を使うこと
  4. ③の集団カテゴリーを取り締まること

①②は、いわゆるよく批判の対象になる本質主義ですね。

③④は、政治活動でよく本質主義が使われるということを述べています。

 

なお、①②を批判する人が、逆に③④で自らが批判を受けるということがよくあるそうです。

例えば、女性問題の活動家が、「女性は感情的だ」などという政治家の発言を、本質主義的な発言だと批判したとします。

ただ、同じ女性問題の活動家が「すべての女性のために戦う」といった場合、「女性=差別を受けているもの」という前提をもとに活動しているように見えるので、その発言が本質主義的として批判を受けるということだと思います。

 

以下、この4つについて理解した範囲で紹介します。

 

1. ある性質が特定のカテゴリーに属する全員にあてはまると考えること

1つ目は、「日本人(は全員)集団主義的だ」「日本人は(全員)温泉が好きだ」など、「温泉好き」「集団主義的」などのある性質が、特定のグループ全員にあてはまると考えることです。

当たり前ですが、カテゴリーの構成員の全員がそうでないことは理解されています。ただ、そうでない人は例外とみなされます。

 

「日本人は(全員)は集団主義的だ」などという文化ステレオタイプの多くはこの1つ目に当てはまります。

ちなみに、文化ステレオタイプについては、実証的に根拠がないことが多いと言われています。

(「日本人」に関するものについては『日本人論の危険なあやまち 文化ステレオタイプの誘惑と罠』が詳しいです。)

マイノリティの問題を語るときに、「〇〇人は差別されている」などと過剰に一般化するのもこれに入ります。

 

ただ、この場合の本質主義は、過剰一般化をすることは問題だが、どちらかというと程度問題であるとPhillipsは指摘しています。

 

2. その性質がカテゴリーに属するものだと考えること

2つ目、その性質がそのカテゴリーそのものに属するものと考えることです。

1つ目の場合は、ある性質があるカテゴリーに属する個人に当てはまるというものでした。

ただ、2つ目の場合は「カテゴリーに属する個人」というところが抜けて、その性質がそのカテゴリーそのものに属すると考えます。

 

1つ目のほうは一般化の度合いはあるとはいえ、「日本人(に属する個人)は集団主義的なことが多い」というニュアンスに近いと思います。

2つ目になると、「集団主義というのは日本人というカテゴリーに備わっている」ということになります。

極端にいうと「日本人は生まれつき集団主義的だ」、「日本人だったら集団主義なのは当たり前だ」となるのだと思います。

 

Phillipsは2つ目の立場のほうを問題視しています。

というのも、カテゴリーそのものにその性質が備わっている場合、人間の行動を説明するのに、このカテゴリーが使われることになるからです。

どういうことかというと、「日本人に集団主義という性質が備わっている」と考えると、「〇〇さんが集団主義的なのは、彼が日本人だからだ」と、人の行動の説明に「日本人」というカテゴリーを使うことが可能になります。

 

「集団主義」というような文化ステレオタイプも、「日本人」といったカテゴリー自体も、社会的・歴史的に構築された側面が強いと言われています。

ただ、2つ目の立場の場合、性質・カテゴリーの両方を(社会的・歴史的に構築されたかもしれないにもかかわらず)自然で当たり前のもののように提示しているとPhillipsは述べています。

 

3. 政治活動のテーマ・主題として、集団性を使うこと

3つ目は、政治活動のテーマ・主題として、集団性を使うことです。

そもそも、政治活動は個人で行うものではなく、集団で行うものです。この集団に何らかの統一性が必要になることから、本質主義的になるのはある程度避けられないものかもしれません。

戦略的本質主義と言われることもあるようです。

 

最近の「Black lives matter」や女性の権利運動などは、「Black」や「女性」を他のカテゴリーと区別し、(その中に色々な人が存在するにもかかわらず、)そのカテゴリーの中の人は不当な扱いを受けているたという本質主義的な前提で動いていると考えられます。

また、「人種差別をなくそう」と主張していたとしても、「Black」という集団を他の集団と区別し、その「Black」を自分たちが代表している限り、なくそうとしている差異を生産し続けているともいえます。

 

とはいえ、本質主義を否定することは「人間は皆一緒」ということにもなってしまい、活動の目的である差別等の問題が大した問題ではないということにもなってしまいます。

 

4. その集団カテゴリーを取り締まること

4つ目は、ある特徴をそのカテゴリーのメンバー全員に不可欠なものと考え、集団をやめない限り、その特徴を放棄できないとすることです。

Phillipsの挙げていた例だと、「男性と関係を持つならレズビアンでない」とか、「オペラにいくなら労働階級でない」とか「無信仰な人を認めるならムスリムでない」ということなどが挙げられます(p. 57)。

要するに集団カテゴリーのメンバーを、ある特徴でもって管理するということですね。

このような形で集団カテゴリーを管理するのは、社会を変革する運動にも、変革に反対する活動のどちらにもみられます。

 

この4つ目については、Phillipsは「this last is the one where the essentialism seems most unambiguously wrong(この点は本質主義が最も明確に間違えていると考えられる点である)(p. 57)」と強く問題視しています。

 

まとめ

Phillips(2010)の『What’s wrong with Essentialism?.(本質主義の何が問題なのか)』の論文について簡単にまとめました。

本質主義というのは、いわゆる一般化と簡単に見分けがつかないときが多く、本質主義の問題というのは、しばしばその程度の問題であるとPhillipsは述べています。

 

ある議論を本質主義的と批判することは簡単ですが、なんでもかんでも本質主義的と言ってしまうと、一般化することもできなくなってしまうということなのかなと思いました。

また、政治活動(に限らずともその他の集団で何かをすること)では本質主義的になりやすいことを認識した上で、できるだけ多様なメンバーを包括しつつ、共通の課題に取り組むのが現時点での現実的な選択肢になるのかと思いました。

 

今回紹介したPhillipsはジェンダー関係や政治について多数執筆しているようです。

  • Phillips, Anne. Unconditional Equals. Princeton University Press, 2021.