ネオリベラル社会におけるコミュニケーション能力の2つの矛盾する側面について(Kubota & Takeda 2021)

コミュニケーション能力について

言語教育ではコミュニケーション能力が大切だと言われます。

このサイトでもコミュニケーション能力について簡単にですが紹介したことがあります。

ただ、この「コミュニケーション能力」が何かと聞かれて、その定義をはっきり答えるのは難しいのではと思います。

 

また、コミュニケーション能力というと、個人の保有する能力という感じがありますが、あくまでコミュニケーションは相手があってこそのものであることから、相手との関係性構築に着目した相互行為能力(interactional competence)などの概念も提唱されています。

今回はネオリベラル社会におけるコミュニケーション能力(以下の論文では、「ネオリベラル・コミュニケーション能力」と呼んでいました)について検討した以下の論文を読みました。

  • Kubota, Ryuko, and Yuya Takeda. “Language‐in‐Education Policies in Japan Versus Transnational Workers’ Voices: Two Faces of Neoliberal Communication Competence.” TESOL Quarterly 55.2 (2021): 458-485.

コミュニケーション能力を再考するという意味で、相互行為能力などの議論とも共通するところがある論文だと思いました。

 

今回の論文の内容

今回の論文では、ネオリベラル社会における「ネオリベラル・コミュニケーション能力」は2つの矛盾する視点が存在していると指摘していました。

 

その根拠として、日本の政策策定者の視点からみた「コミュニケーション能力」と、多国籍企業の視点からみた「コミュニケーション能力」を比較分析していました。

政策立案者の視点としては、「グローバル人材育成の推進に関する政策評価」という政府文書と、政策策定に携わった人へのインタビューを分析していました。

多国籍企業の視点として、多国籍企業に対するアンケート・インタビュー調査の結果を分析していました。

 

政策立案者側の視点としては、コミュニケーション能力といったときに、グローバルな英語としての英語スキルの向上という意味合いが強かったようです。

特に、英語のスピーキングスキルをあげることが必要で、TOEFLのような共通試験の点を伸ばすことも重視していました。

 

一方、多国籍企業の視点としては、コミュニケーション能力といったときに、言語以外の、異文化理解や適応力、柔軟性を重視する声も聴かれたようです。

言語能力とコミュニケーション能力は関係しているけど、別物と考えるような節も見られたようです。

また、インタビューでは、英語以外の現地の言葉の習得の必要性を述べる人もいたようです。

 

ネオリベラル社会でのグローバル化では、グローバルな基準を策定するといったような均一化(homognization)で規範的な動きと、同時に人の移動による多様化による非均一化(heterognenation)で非規範的な動きの両方がありますが、今回のコミュニケーション能力の分析の結果で出てきた矛盾する視点も、このネオリベラル社会における均一化・非均一化に対応すると言っていました(Kubota & Takeda 2021, p. 479)

 

興味のある方は

下記の久保田の本の内容にも、今回の記事に共通するものがあるように思いました。

  • 久保田竜子(2018) 英語教育幻想. ちくま新書

 

以下の記事も関係していると思うので、よろしければお読みください。

 

この論文を読んで、コミュニケーション能力という言葉は、使い勝手がいいこともあり、授業のシラバスなどで私自身が使用することも多いのですが、自分自身がどういう意味で使っているか、立ち止まってみたいと思いました。

 

また、今回の論文でもでてきている「ネオリベラリズム」ですが、ご興味のある方は以下のような本もあります。

  • Block, David, John Gray, and Marnie Holborow. Neoliberalism and applied linguistics. Routledge, 2013.

↑私自身も今回の論文を読んで、「ネオリベラリズム」が一体何なのか、ちょっとよくわからなくなってきたので、この中のネオリベラリズムについての章を読みたいと思っています。