岩波書店の「そうだったんだ!日本語」シリーズの滝浦(2013)「日本語は親しさを伝えられるか」を読みました。
- 滝浦真人,『そうだったんだ! 日本語 日本語は親しさを伝えられるか』, 2013, 岩波書店
標準語やあいさつ文化の考察を通して、日本語のポライトネスについて話していました。
滝浦は、日本語の対人関係が相手の領域に踏み込まず、型に忠実な「安心のコミュニケーション」に強く傾くものだと言っています。例えば、敬語を使わなければ批判されますが、敬語という「型」を使っておけば「安心」、あいさつもしなければ批判されますが、この「型」さえ使っておけば「安心」という効果があると言っています(ただ、あいさつについては相手との距離を近づける言葉として奨励されることもあるといっています)。
滝浦によると、標準語というのも、よそよそしさを感じさせるもので、「普通の日本人が話す日本語」の「標準的対人距離」を「遠」の方向に動かすものだったといっています。(p.116)
本のタイトルにもあるとおり、こういう「遠」の方向に働きがちなコミュニケーションを「近」「親しさ」の方向に働かせる必要性があるのではといっていました。
敬語やあいさつ、定型表現の多さをもって、日本語が「安心のコミュニケーション」といえるのかどうか、「敬語は“使っておけば安心”と思える便利な道具」(p.117)なのかどうかは議論の余地があるのかなと思いました。例えば、相手が親しくなりたいと思っていたとすると、「敬語」を使っていると逆に「安心でなくなる」こともあるのかなと思いました。
そのほかには、この本のところどころに出ていたエピソードがおもしろかったので自分用にメモしておきます。
- 宮沢賢治の「風の又三郎」では、学校の先生と、風の神の子と噂される転校生「高田三郎」(+その父親)のみが「標準語」を話していて、ほかの学生は方言(岩手語)で話していたそうです。宮沢賢治はかなり標準語・方言に敏感だったようで、読み直してみるとおもしろそうです。
- 穂積陳重の呼称論では、対人距離を近づけるものと遠ざけるものとしての呼称の役割を分析しているようです。
- 式亭三馬の滑稽本の『浮世風呂』(1809-1813)では、典型的なあいさつが「これは○○さん、おはようございます」のように「感動詞等+呼称+トピック」になっていて、現代でよくみられる「おはよう」のみを使う挨拶はでてこなかったようです。現在の挨拶文化ができたのは明治以降のようです。