PlurilingualismとTranslanguagingの違いについて

PlurilingualismとTranslanguagingの違いについて

以前、PlurilingualismTranslanguagingについて紹介しましたが、その違いについて、以下の論文をもとに記載します。

  • Ofelia García & Ricardo Otheguy (2020) Plurilingualism and translanguaging: commonalities and divergences, International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, 23:1, 17-35, DOI: 10.1080/13670050.2019.1598932

なお、この論文の著者のGarcíaはTranslanguaging関連研究の第一人者でもあり、Translanguagingを押しているところはあると思うので、以下の記述もそこを考える必要はあると思います。

 

この論文では、違いとして以下の2つを挙げていました。

  • 言語に対する見方
  • 教育目標に対する考え方

 

違い①:言語に対する見方

García & Otheguy (2020)は、「英語」「日本語」といったような「言語」の存在をどう考えるかという点で、Plurlingualismとtranslanguagingは違うと主張しています。

 

Plurilingualism

複言語主義のほうは個人の中で、言語のレベルは様々であるが、複数の言語が存在しているという考え方に基づいています。

このように一人の中に英語(言語1)、日本語(言語2)、スペイン語(言語3)などの様々な言語リソースがあり、それが相互に関連していると考えています。

バイリンガルやトリリンガルというと、2つまたは3つの言語で堪能というイメージがありますが、plurlingualismの場合は、言語レベルが低くても(例えば、スペイン語は日常会話ぐらいしかできないなど)、それは大切なリソースと考えます。

 

何をもって「言語」というのかは難しい問題ということはplurilingualismは認識していますが、社会文化レベルでも、個人の言語心理レベルでも、言語という存在そのものは否定していません(García & Otheguy (2020))。

 

Translanguaging

Translanguagingの考え方では、「日本語」「英語」などのいわゆる言語といわれるものは、社会政治上の作られたカテゴリーであって、その言語を話すコミュニティを優遇するためによく使われるものでもあり、実際の言語心理的な現実を反映していないと考えています(García & Otheguy (2020))。

 

よくバイリンガルの同士の会話だと、複数の言語が自然に混ざり合っていることがよくあります。

 

例えば、この前読んだ温又柔の『台湾生まれ 日本語育ち』では、日本語・中国語・台湾語の中で育った筆者の経験が語られていました。

温又柔のお母さんは、「ティア―・リン・レ・講話、キリクァラキリクァラ、ママ、食べられないお菓子。」といったように、日本語・中国語・台湾語を「奔放に繋ぎあわせ」て話していたそうです(p. 33)。

 

こういったバイリンガル(トリリンガル)の中では、個別の言語があるのではなく、すべての言語リソースが一つのシステムとして存在しているといっています。

↑図にするとこんな感じです(García & Li (2014)より)。

 

Fnは言語特徴(語彙など)ですが、温又柔の母の例だと、「ティア―・リン・レ・」「講話」「キリクァラキリクァラ」「ママ」「食べられない」「お菓子」などのそれぞれの要素、「台湾語」「日本語」「中国語」と別々に格納されているのではなく、一つのシステムの中に一緒に存在している感じです。

 

違い②:教育目標に対する考え

また、García & Otheguy (2020)は、plurilingualismとtranslanguagingでは、教育目標に対する考え方も違うと主張します。

 

Plurilingualism

Plurilingualismのほうは、言語のリソース(repertoire of languages)を増やすことや、言語教育において自分の母語など既に知っている言語リソースを活用とすることを重視してます(García & Otheguy (2020))。

 

例えば、ヨーロッパ市民に対するクラスの場合、フランス語やドイツ語など複数の言語を学ぶ機会を与えたり、フランス語・ポルトガル語・スペイン語などの同じロマンス言語間の違いについての意識を高めたり活動をクラスに含めることが含まれます。

 

また、ヨーロッパ内の移民に対しては、移民国の言語を学ぶ際に、目標言語だけでやるのではなく、自分の母語を活用できるような機会を与えるなどもあげられます。ただ、最終目標はあくまで移民国の言語を学ぶことになります(García & Otheguy (2020))。

 

Translanguaging

Translanguagingのほうは、バイリンガルである話者が、バイリンガルである自分が尊重される形で、バイリンガリズムを実現できるようにすることを目的としています(García & Otheguy (2020))。

 

例えば、温又柔のエッセイの中で、彼女自身は幼いころは、母が複数の言語を奔放に使うことを恥ずかしく思っていたようです(今は自慢に思っていると言っています)。

その背景には、本人が日本育ちで、日本の教育を受けているので、正しい「日本語」という概念があり、母の言語が「正しくない」「変」と思っていたのかもしれません。

 

Translanguagingでは、こういう言語使用はごく自然なものであり、マイナスの感情を抱くのではなく、自分の話し方(や存在)を尊重できるようにすることを教育目標としています。

 

まとめ&興味のある方は

García & Otheguy (2020)の論文をもとに、plurlingualismとtranslanguagingの違いについてまとめました。

今回読んだ論文で面白かったのが、「white European」とか「Brown and black refugees」とか人種を意識した書き方がされていたことです。最近人種に対する関心の高まりがみられますが、それが反映しているのかもしれません。

 

またplurilingualismとtranslanguagingについてはどちらもいろいろ批判もでています。

もし興味のある方はこちらの記事もご覧ください。