デリダといえばポストモダンの旗手のようなイメージがありますが、デリダについてもう少し知りたいと思い、以下の高橋(1998)「デリダ―脱構築」が近くの図書館にあったので、借りて読んでみました。一般の人向けに、噛み砕いて書かれていたので、分かりやすかったです。
- 高橋哲哉『デリダ──脱構築』(現代思想の冒険者たち Select)講談社、2003
デリダの「脱構築」を知るためには、まずデリダが脱構築を考えるに至った流れを知っておくとわかりやすくなると思います。デリダの頃はソシュールをはじめとする構造主義が盛んでした。構造主義というのは、ある現象を説明するときに、その現象がどういう構造をしているのか分析し、構築していくという考え方と捉えています。例えば、「言語」と言う現象を調べるためには、言語はどういう構造をしているのか(どういう言葉があり、どういう文法があるのか)などを分析し、その語彙の種類・文法等の言語体系を構築していくことになります。
デリダは、こういったシステムは完璧なものではなくて、いつも何かの「ずれ」のようなものが存在しているといっています。例えば、単語一つをとっても、その意味は時代を超えてずっと同じといったようなものではなく、人によって違うふうに受け留めたり、新しい意味が生まれたりします。こういったずれが続いていくことを「差延(différance)」とデリダは呼んでいるようです。
こういう「ずれ」を指摘することで、構造主義の枠組みとなる「構造」そのものを批判していきます。
デリダによると、男・女、西洋・東洋、話し言葉・書き言葉、自己・他者、善・悪などの2つの異なる概念としてみなされる枠組みというのは、ある片方の概念①から、もう片方の概念②から排除して、概念②が概念①の外部にあるような状況を作り出そうとすることを前提としています。ただ、そんなふうに概念①と概念②を分けられるものではなく、この2つの境界線を決定することはできず、概念①の内部にすでに概念②がいとも簡単に入り込んでくると言っているそうです。
あまりいい例じゃない気もしますが、上記を「善・悪」を例に考えてみます。「善」という概念は、「悪」という要素を徹底的に排除してできる概念です。ただ、「善」と呼ばれる正義のヒーローも、「悪」と戦うために、人をだましたり、他人を犠牲にしたり、「悪」とみなされる行為をすることもあるわけで、「善」と呼ばれるものの中にも「悪」という要素がいとも簡単に入りこんできます。善と悪の境界線は決定不可能ということにもなります。
このようにシステムの元となっている概念などの矛盾を指摘することで、システム自体の不安定さを明らかにしていくのが脱構築みたいです。ただ、脱構築はニヒリズムというわけではなくて、システムの別の可能性を提示していくというものだそうです。