哲学者のBernard Williams(1985)の「倫理と哲学の限界」についての動画を視聴しました。

応用言語学ではないですが,ちょっとモラルについてちょっと気になっていることがあり、どうしようかなと思っていたら、こんな動画を発見しました。

イギリスの哲学者のBernard Williamsの「Ethic and the Limits of Philosophy」(1985)について説明していてとてもわかり安かったです。

  • Williams, Bernard. Ethics and the Limits of Philosophy. Taylor & Francis, 2011.

 

Moral relativismとは、つまり「どのモラルよりも優れたモラルなどなく、モラルの優劣(是非)は自分の立場によって変わる」と考える考え方で、大げさな例でいうと、例えばスリをした者に、罰金刑を課す社会と、もうしないようにと犯人の手を切ってしまう社会があったとすると、どちらの社会が優れているというわけではなく、これはただ、「スリ」に対する見方の違いだ、と考える立場です。

私がこの動画で面白いなと思ったBernard Williamsは以下の2つです。

まず「Reflection destroys ethical knowledge and leads to relativism」、つまり、考えるという行為そのものが、倫理的知識を脅かし、相対主義に至るといっているそうです。ま、考えなければ、例えば「殺人は悪」というモラルに対して何の疑問もわかないけれど、「100人殺した人を殺すのは悪なのか」なんて考え出すと、倫理観が揺らぐということでしょう。考えることが、自分が持っている倫理観から距離を置くことになるということだと思います。

考えてみればそれはそうかなと思いますが、「destroys(破壊する)」という強い言葉を使っているあたり、著名な哲学者だけあって言葉の使い方が絶妙だなと思いました。ちなみに、Williamsは考えることで倫理的知識は脅かされるけれども、その一方で新しい知識も得られるようになるとも言っているそうです。

もう一つ面白いなと思ったのは、「relativism of distance(距離の相対主義)」という考え方です。Williamsによると、「あのグループは私達と違うモラルを持っていて、私達とは距離があるんだ」と認識することで、相対主義が生まれる素地ができるとのこと。

彼はさらに、Real confrontation(実際の対立)とnotional confrontations(概念的な対立とでもなりますかね?)という考えを提示し、notional confrontations(概念的な対立)のときにrelativism of distance(距離の相対主義)が起きるといっています。

私の理解した範囲で説明すると、実際の対立とは、選択可能な現実としてモラル等の対立が存在すること。例えば、ある日本の中学生が、「勉強することはいいことだから勉強しろ」という学校の先生の意見と、「勉強しても意味がないから勉強するな」という友達の意見という2つの選択肢を提示され、この中学生は「勉強する」、「勉強しない」どちらの選択肢も選択することができるとします。これは、その中学生にとって現実的な問題として選択可能なので、実際の対立になる。この場合は相対主義は生まれません。この場合、その中学生は「そうだ、勉強は役に立つ」とか「そうだ、勉強なんてしても意味がない」などの何らかの価値判断をすることになります。

それに反して、notional confrontations(概念的な対立)は、違いがあると認識するけれども、その違いが現実の選択肢にない場合を言います。つまり、同じ中学生が、江戸時代は一夫多妻制だったという話を聞いても、現在の日本では一夫多妻制は法律上は選択肢になく、それを選ぶことができない(はず)。つまり、これは実際の対立でなく、概念的な対立であり、その場合にはrelativism of distance(距離の相対主義)が生まれるということです。要するに、この中学生は現実の価値観(夫婦とは一人の夫と一人の妻で成り立つ)と、選択可能でない価値観(江戸時代の一夫多妻制)を比べ、「違う」と距離を感じ、「あ、それぞれに違う価値観があるんだ」と相対主義につながるということです。

動画をみただけなので、間違って解釈してるかもしれませんが、こんなふうに考えたことなどなかったので、なかなかおもしろかったです。かなり古い本なので、この後どういう風に彼の説が批判されているのかなど気になります。といいつつ、まず原文を読むのが先ですね・・・・。