複言語主義とは?
CEFRでは複言語主義(plurilingualism)・複文化主義(pluriculturalism)を掲げています。
この「plurilingualism」「pluriculturalism」というのは造語ですが、このうち「複言語主義」について説明したいと思います。
複言語主義については、以下の論文で詳しく記載されていますが(無料でアクセスできます)、この中で「能力としての複言語主義(plurilingualism as a competence)」と「価値としての複言語主義(plurilingualism as a value)」の2つに分けて考えています。
複言語主義については、日本語でも以下のような本が出版されています。
- 細川・西山(編)(2010)「複言語・複文化主義とは何か ―ヨーロッパの理念・状況から日本における受容・文脈化へ」くろしお出版
能力としての複言語主義(plurilingualism as a competence)
まず、「能力としての複言語主義」について、上記のCouncil of Europe (2007)のp. 17の記載を少し長いですが引用します(色と番号はこちらが追加)。
番号のところを中心に一つずつ説明したいとい思います。
①複言語主義はすべての話者に備わっている、1つ以上の言語を使用し、学ぶ能力である
まず、すべての話者に備わっている、1つ以上の言語を使用し、学ぶ能力(the intrinsic capacity of all speakers to use and learn, alone or through teaching, more than one language)として、複言語主義を挙げています。この能力は、自ずと身に着くこともありますし、教育を通して身に着くこともあるといっています。
冒頭の「すべての話者に備わる能力(intrinsic capacity to all speakers)」というのは、結構重要なポイントで、複言語主義では、すべての話者は潜在的に複言語能力が備わっているといっています。教育の有無を問わず、すべての人が複言語を習得する能力があるということです。
②複言語主義は様々なレベルの言語を、目的に応じて使える能力である
また、複言語主義というのは、例えば英語やフランス語、中国語などの複数の「言語」を「完璧」にまたは流暢に話せるということではありません。言語の能力のレベルは様々である(proficiency, of varying degrees)といっています。なので、そのレベルの高低を問わず、複数の言語を、必要に応じて使える能力というのが、複言語能力です。
例えば、フランス語は「merci(ありがとう)」しか知らないという人が、フランス語圏に旅行にいき、レストランで「Merci」といってお礼を伝えていたら、それは立派にその「お礼をいう」目的のために、自分の持っている言語リソース(「Merci」)を使ったということになります。
③言語教育の目的は複言語能力を伸ばすことである
レベルは様々ではあるが、複数の言語のリソースを増やし、複言語能力を伸ばすことが言語教育の目的(The goal of teaching is to develop this competence)だといっています。
ここも面白いポイントで、従来の言語教育だと、英語を学ぶ場合だと「英語の能力を伸ばす」というように、学習言語の能力を伸ばすことが目的になることが多かったと思います。
CEFRは、そうではなくて、言語学習を通して、(母語を含む)様々な言語を、目的に応じて使えるようになる能力を育むことをその目的に明示的に挙げました。
例えば、日本語母語話者の人が英語を学ぶ場合は、「英語」の言語能力を伸ばすためではなく、英語や日本語を目的に応じて主体的に使えるようになるためというのが目的です。
なお、何をもって「言語」というのかも難しい問題ですが、Council of Europe (2007)では言語変種(language variety(ies))という言葉を使って、その難しさに言及はしています。
価値としての複言語主義(plurilingualism as a value)
次に、価値としての複言語主義です。また、Council of Europe (2007)のp. 17-18の記載をまた引用します(色と番号はこちらが追加)。
番号のところを中心に説明したいとい思います。
①複言語主義は言語に対する寛容性( linguistic tolerance)を涵養する教育的価値である。
この価値としての複言語主義では、複言語を使う能力を伸ばすことだけではなく、言語に対する寛容性( linguistic tolerance)や、言語の多様性を受容する姿勢(positive acceptance of diversity)を教育を通して育む必要性を述べています。
上にも述べたとおり「言語」の単位というのは曖昧なもので、「日本語しか話せない」といった人でも、方言を話せる人もいると思います。複言語への意識を高めることで、複言語「英語」や「日本語」といった「言語」だけでなく、こういった自らや他者の持つ言語変種と呼ばれるものに同様の価値を与えることにつながるかもしれないといっています。
②複言語主義に対する意識は、教育を通して学ぶ必要がある。
ただ、この意識というのは教育を通して学ぶことが必要(this awareness should be assisted and structured by the language of schooling)で、自然に身に着くものではないといっています。
「能力としての複言語主義」のところでは、複数言語を使う能力というのは、自然に身に着けることも可能といっていましたが、複言語に対する意識を養うには教育が必要となるといっています。
CEFRは民主的市民性を育むことも重要視していますが、そのためにこういった価値観を共有する必要があるということかと思います。
CEFRに対する批判
CEFR(又は複言語主義)については以下のような批判もされています。
- 複言語主義を挙げているが、CEFRの共通参照レベル(A1, A2, B1, B2など)はネイティブスピーカーを基準にしている(Byram 2003)。
- 複言語主義に関するイデオロギーを意識しないと、無意識にネオリベラリズムなど(詳しくはこちら)の支配的な流れに汲みすることとなり、現実の問題を解決できなくなるおそれがある(Kubota 2014)。(例えば少数言語などは、ある程度強硬な手段をとらないと、消滅するおそれもあります。様々な言語を学ぶことを推奨するだけだと、英語などの強い言語に学習者が流れることになります)
まとめ
今回はCEFRの掲げる複言語主義について少し説明しました。
CEFRについては2018年に補遺版も出版されましたし、今後も加筆・修正などできればと思います。この記事が少しでもお役に立てるとうれしいです。
次の記事では、CEFRの行動中心アプローチについて書いていますので、よければご覧ください。
CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)とは何か?③:行動中心アプローチ(action-oriented approach)