昨日の続きです。
- ウィル・キムリッカ(1998). 多文化時代の市民権─ マイノリティの権利と自由主義. 晃洋書房.(監訳:角田猛之他)
昨日のべたように、キムリッカは自由主義者はエスニック集団・民族的エスニシティに対し、集団別権利を承認できるし、すべきであるといっています。
ただ、第8章の「寛容とその限界」では、民族的マイノリティ・エスニック集団が、自由主義の概念と反するような集団別権利を要求した場合(例えば、女性の教育の権利を拒否するなど)、どう対応すべきなのかを検討しています。
キムリッカは、民族的マイノリティ・エスニック集団による権利請求を、対外的防衛(external protections)と対内的制約(internal restrictions)に分けて考えています。対外的防御は、いわゆる集団間に関する要求で、「主流社会の行使してくる経済的・政治的権限を制約する権利」(p. 9)と定義されています。これに対し、対内的制約は、集団内の要求で「集団の連帯あるいは文化の純潔性の名の基に、ある集団がその成員の自由を制約する権利」(p. 9)です。
ただ、キムリッカは不干渉の論理-つまり、対外的防御は一切許容しないが、対内的制約のいくつかは許容する立場-には否定的なようです。つまり、ある民族的マイノリティ・エスニック集団がその集団内で不寛容な政策をとること(対内的制約)には干渉しないという立場には異を唱えています。
キムリッカは、自由主義者はこういった不寛容を傍観するべきではなく、自由主義の原理が実現されるよう努めるべきだといっています。ただ、自由主義化が永続するのは、外から押し付けたときではなく、内部からの改革があるときなので、それを促すような支援を与えることが必要ともいっています。(p. 251)
この点については、キムリッカは以下のようにいっています。
- 「自由主義者には、非自由主義的な民族的マイノリティに対して自分たちの見解を押しつける権利が、自動的に与えられているわけではない。しかしながら、彼らには、自分たちの見解の内容が実際のところいかなるものであるのかをはっきりさせるという点については、確かにそうする権利があるし、それどころかそうする責任さえあるのである。」(p. 255)
ちなみに、自由主義者の諸原理として、キムリッカは以下の2つを挙げています(p. 226)
- 「諸個人には自らが属する文化のどの側面が伝承するに値するかを自分で決定する権利がある」
- 「諸個人は、自らの属する共同体の伝統的な慣習にはもはや忠誠を尽くす価値がないと考えるようになったならば、その慣習に疑問を呈し、場合によってはそれを修正できる自由と能力を持つべきである。」
つまり、自分で価値観・習慣等を選択し、そして必要に応じてその選択を変えることができる権利があるということだと思います。
原書はこちらです。
- Kymlicka, W. (1995). Multicultural citizenship: A liberal theory of minority rights (p. 26). Oxford: Clarendon Press.