ときどきお邪魔している中東・イスラーム学研究家の池内恵のブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」の中の「『週刊エコノミスト』の読書日記(10)不寛容への寛容はあるのかーーキムリッカ『多文化時代の市民権』を読み直す」(2015年4月2日)で紹介されていて、前から読みたいと思っていた以下の本を読み終わりました。
- ウィル・キムリッカ(1998). 多文化時代の市民権─ マイノリティの権利と自由主義. 晃洋書房.(監訳:角田猛之他)
この本では、一貫して、自由主義者が民族的マイノリティ・エスニック集団に対して、集団別権利を承認できるし、またそうすべきであると論じていました。
ちなみに「民族的マイノリティ」は、アメリカ・インディアンなど、より大きな国家に組み込まれた社会をいい、「エスニック集団」は、移民など自分の共同体を離れて別の社会に移ってきた社会を指します(p. 28)
これらの集団が、言語や教育、特別代表、土地等に対する集団別権利(collective right)を要求した場合、なぜ特定の集団のみがそのような権利を持つのかという疑問が生まれ、個人の自由と平等を尊重する自由主義に相いれないようにも思います。
ただ、キムリッカはこの点について、第6章「正義とマイノリティの権利」において、市民権自体が、本来集団別の概念だといっています。つまり、自由主義国家というのは、個々人の権利と機会を保護するだけでなく、ある特定の集団の集団的権利をも保護しているのだといっています。
例えば、日本の場合は、日本の「市民権」を持つということは、その中での言論の自由などの個人の諸権利が保証されるだけでなく、日本語を話す集団に日本語を公的な場で使う権利を与え、国民の休日などを通して文化を保護することにもなっているということだと思います。
キムリッカは、自由主義国家が、個々人の権利だけでなく、集団別権利を保護していると考えると、なぜある集団の成員にはそれを与え、民族的マイノリティやエスニック集団にその権利を与えないのか、それを立証する責任があるといっていました(つまり、民族的マイノリティ・エスニック集団に集団的権利を与えないことについて、納得のいく説明をしなければならないということだと思います)。
もう少し書きたかったのですが、長くなるのでまた明日にします。
この本は日本語で読んだのですが非常に訳もわかりやすかったです。
原書はこちらです。
- Kymlicka, W. (1995). Multicultural citizenship: A liberal theory of minority rights (p. 26). Oxford: Clarendon Press.