昨日日本の外国語教育に関する方針・施策等をざっと年代別に列挙しましたが、こういった外国語教育に関する方針(さらには日本における「国際化」の流れ)について批判的に見た論文を読みました。
- Anthony J. Liddicoat (2007): Internationalising Japan: Nihonjinron and the Intercultural in Japanese Language-in-education Policy, Journal of Multicultural Discourses, 2:1, 32-46
Liddicoatは南オーストラリア大学の教授で、文化間教育等で幅広く書いています。今回読んだ論文に関連する本も出版しています。
- Liddicoat, Anthony J. Language-in-education policies: The discursive construction of intercultural relations. Vol. 153. Multilingual matters, 2013.
Liddicoatは、日本における外国語教育の政策(Language-in-Education Policies)は、国際化の流れの一部に位置づけられるといっています。ただ、日本における国際化というのは、英語圏の国とのコミュニケーションを図ること(英語力の向上)に重きが置かれ、幅広い地域や様々な言語でのコミュニケーションを図ることは主眼におかれていないと指摘しています
さらに、他の研究者等も引用しながら、日本の政策等における英語を通したコミュニケーションの必要性というのは、英語を学ぶことを通して自己を変容させるというより、英語を使って日本人としてのアイデンティティを示し、日本の視点を国際的に伝えるという側面が強いといっていました。つまり、日本の視点についてはっきり示すことにより、他者を変容させることを求めているのですが、自分自身が他者に合わせて変容したり、自分自身が日本人のアイデンティティとは何かを懐疑的に考えることには焦点が当てられていないといっています。こういったことから、日本における「国際化」は日本人論の延長線上にあるという指摘もあるようです。
Liddicoatは、日本における「国際化」とは、「日本人」としての魂を持ち、「西洋」の技術を受け入れる「和魂洋才」を反映しているとも言っていました。
ただ、こういった政策によって作られるディスコースが現実を表しているというわけではなく、現実には多様性が存在しているのであって、外国語教育の政策で作られるディスコース等は、多様性のある現実とは乖離しているとも指摘していました。