Stephan Mayは言語政策や少数言語の権利などの専門家で、以下のような本も出版しています。
- May, Stephen. Language and minority rights: Ethnicity, nationalism and the politics of language. Routledge, 2012.
今回は、Mayの以下の論文を読みました。
- May, Stephen. 2003. Rearticulating the case for minority language rights. Current Issues in Language Planning 4:95–125.
この論文では、少数言語話者の言語権(minority language rights)に対する批判3つを説明した後、それに反駁していました。私が覚えている範囲で要点をメモしておきますが、あくまで備忘録程度なのでご注意ください。
批判1: 本質主義的であること(essentialism)
少数言語話者の言語権の議論はその前提として言語と民族アイデンティティとのつながりを自明のものと考えていることが多いのですが(実際、「○○語は○○民族のアイデンティティを支える言葉だ」などきくことがあります)、言語を失っても民族アイデンティティが喪失するわけではなく、アイデンティティと言語は必ずしも関連しているわけではないという批判があるようです。
これについては、Mayは、確かにアイデンティティと言語との関連性は当然のものではなく、言語権を提唱する人もそれを認識する必要があると指摘しています。ただ、だからといって、言語がアイデンティティ形成に果たす役割が重要でないということにはならないということを指摘していました。
言語はその言語話者とそうでない者の間の境界線を作り、それがコミュニティ意識の形成に役立つという側面があり、本質主義的でない立場から言語とアイデンティティの関係を探っていく必要があると言っていました。
批判2: ユートピア的で人工的であること(utopianism, artficiality)
少数語話者の言語権の話をするときに、生物多様性などと絡めて議論されることがあります。私自身も、最近、ある少数言語についての番組を視聴したのですが、その中で「生物多様性と同様に言語の多様性を守らなければならない」といった趣旨のナレーションがあり、違和感を覚えたのを思い出しました。
ただ、こういった考えはユートピア的で現実的ではないという批判がなされているようです。経済・社会的に利点があれば人は言語を守ろうとしますが、そうでなければ社会・政治の変化により言語が失われていくのは自然のプロセスだ、という批判です。
Mayは、生物多様性などと絡めて言語の多様性を守ることを強調することには限界があると指摘しています。というのも、生態系の損失が仕方のないことなら言語の喪失も同じく仕方のないことだという議論に結び付くからです。
Mayは言語権の議論をするときは、社会歴史的・社会政治的な議論をすることが肝要といっていました。その上で、社会・政治の変化により言語が失われていくのは自然と考えるのは一面的だと反駁していました。
なぜなら、その主張は人の意志(agency)を軽視しているからです。民族グループが1つの言語に非常に固執することもあります。またBourdieuのhabitusの概念を引用して、言語の変化と継続性は併存するもので、変化のみを強調するのは問題だと言っていました。
批判3: 少数言語者の社会・経済的流動性を妨げること(mobility)
少数言語を守ることにより、その話者をそのコミュニティに閉じ込めることになるという批判もあるようです。多数言語を習得すれば、就職などで有利になり、社会的地位の向上や経済的に豊かさにつながるのに、少数言語を守ることにより、その利点を少数言語話者から奪っているというものです。
これについてもMayは、社会・経済的な流動性(mobility)を多数言語のみと結びつけるのは問題があると反駁しています。少数言語の現状は、社会・政治的な産物であり、多数言語だけでなく、少数言語も機能的側面を持っていると指摘しています。
Mayはウェールズ語の例をあげ、少数言語もその地域の行政で使用するなどしてその言語の社会的地位をあげることにより、経済的・社会的にも利点のある言語になるといっていました。また、バイリンガリズムの利点をあげながら、一言語主義に固執することも批判していました。
さらに、社会・経済的流動性に影響を与える要因は言語に限らないため、その他の原因も考えることが必要であるといっていました。