翻訳者の「性」に関する言葉に関する自己検閲に関する以下の論文を読みました。
- Santaemilia, José (2008) The Translation of Sex-Related Language: The Danger(s) of Self-Censorship(s)”, TTR : traduction, terminologie, rédaction. 21 (2), p. 221-252
著者のSantaemilaはジェンダーと翻訳等に関して本も出版しているようです。
- Santaemilia, José. Gender, sex and translation: The manipulation of identities. Routledge, 2015.
検閲といえば、国家権力等が自らに都合の悪いものを取り締まる行為を指すことが多いと思いますが、この論文では翻訳者自身が行う自己検閲を取り上げていました。特に原文に罵詈雑言、宗教を冒涜するような表現、性に関する表現があった場合、翻訳者が自身の政治的、宗教的、倫理的信念等や、歴史的・社会的状況に応じて、こういった表現を書きかえることがあり、このプロセスというのは自身の倫理観と、タブー等の社会的の制約の狭間で個人的に妥協点を見出すプロセスだと言っていました。
この論文では映画にもなった「ブリジットジョーンズの日記(Bridget Jones’s Diary)」と「ブリジット・ジョーンズの日記 キレそうなわたしの12か月(Bridget Jones: The Edge of Reason)」のスペイン語訳・カタルーニャ語訳を分析し、英語の原文の「fuck」がどのように訳されているか調べていました。
Santaemiliaの分析によると、英語の原文では、「fuck」が文字通りの意味ではなく、語り口調を生き生きとさせ、主人公の感情を表現するのに効果的に使われていたのですが、スペイン語訳・カタルーニャ語訳では、ただ機械的に「fuck」に当たる言葉を置き換えているケースが見られ、原文の「fuck」という言葉を通して表されていた感情やその他の効果を薄めることになっていたといっていました。
公に行われる検閲とは違い、こういった自己検閲のプロセスは個人的なもので、特に決まったパターンがあるわけでもなく予測不可能で、特定できないことも多々あるとも指摘していました。
「ブリジットジョーンズの日記」は日本語訳も出ているようです。「fuck」はどう訳されているのでしょうかね。
- ブリジット・ジョーンズの日記