日本語のポライトネスの社会構築主義の見方に反対する論文を読みました。

わきまえ・それに対する批判について

この前、井出の「わきまえ」に関する論文について紹介しました(詳しくはこちら)。簡単にいうと、日本語では、個人の意志に関わらず、ある場面では敬語を使わなければならないなど、場に応じた「わきまえ」が求められるということでした。

ただ、最近のポライトネス研究(詳しくはこちら)では社会構築主義の立場から、こういう社会的規範に人は常に従っているのではなく、様々な言語ストラテジーを通して、相手との関係や自分の立場を構築しているという研究も増えています。例えば、Cook (2006)の研究では、大学での教授と学生の面談の場面の分析をしていたのですが、学生が教授に話すときにも、常に「です/ます」の丁寧体を使っているのではなく、ときに丁寧体を使わなかったりして相手との関係を交渉していたといっています。(e.g. Cook 2006)

 

今回読んだ論文

この社会構築主義はポライトネス研究で最近よく使われているみたいですが、今回は日本語のポライトネスの社会構築主義の見方に反対する論文を読みました。

  • Hasegawa, Yoko (2012) Against the social constructionist account of Japanese politenes. Journal of Politeness Research, 8(2): 245-268.

Hasegawaはカリフォルニア大学バークレイ校の教授で、日本語関係でいろいろ出版しています。以下のような本も出しています。

  • Hasegawa, Yoko. Soliloquy in Japanese and English. Vol. 202. John Benjamins Publishing, 2010.

 

社会規範について

この中でHasegawaは、社会的アイデンティティや社会的関係は固定的なものではなく、会話の中でこれらの関係が変化していくこともあるが、こういった状況が「規範」にはなりえないと言っていました。日本語ではある状況・人に対しては丁寧語を使うなどの「社会的規範」が存在し、個人が全く自由にどの言葉遣いをするか選べるわけではなく、丁寧体が求められる場面でタメ口で話したりすればマイナスの評価を受けることもあるといっていました。

また、上記のCook(2006)の論文で使われていたデータを再分析しながら、Cook(2006)の論文で学生が教授に対して丁寧体で話していない場合というのは、自分の「独り言(soliloquy)」モードのときであり(つまり、相手に対して行われたものでなくて、自分に向かった対話のことだそうです。)、いわゆる本当の意味の丁寧体から普通体へのシフト(要するに「です/ます」から「です/ます」の非使用への移行)はなく、学生は社会的規範に従っていたといっていました。

独り言(soliloquy)の箇所は面白かったので、上記のHasegawaの本も機会があれば読んでみたいです(といいつつ、読みたい本(読まなければならない本)が多すぎて、当分は読めそうにないですが・・・)。

Journal of Politeness Researchの同じ号に、Cookからの反論の論文もあったので、また読んでみようと思います。