言語とイデオロギーに関するHolliday (2010)の本の第一章だけ読みました。

言語教育ではないですが、Intercultural communication(文化間コミュニケーション)でたまに見かけるHolliday(2010)の以下の本を読みました。(第一章だけですが・・)

 

  • Holliday, Adrian. Intercultural communication & ideology. Sage, 2010.

彼はこの本の中で自分は「critical cosmopolitan approach」をとると明確に立場を示しています。彼の立場は、私の理解した範囲だと、以下のようなものです。

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ポストモダン理論に基づいて文化がディスコースで構築されていると考えるけれども、ポストモダン思想だと「どの文化もそれぞれ固有の概念がある」などと相対主義に陥りがちになるので、自己批判の精神を持ち、オープンにいろいろなディスコースを考察して、ディスカッションしていきます。

「どの文化もそれぞれ固有」などと考えるのではなく、例えば「西洋」と「東洋」(または「西洋」と「イスラム」等、その他もろもろの西洋と対峙する「その他」)のようなディスコースが現に存在し、「西洋」と「その他」の関係は平等でないことを考察していきます。

例えば、「西洋」にはプラスのイメージ(「idealized Self (理想化された自己)」)、「その他」にはマイナスのイメージ(「demonized Other(悪魔のような他者)」)がつきまといますし、また「西洋」は「中心(Centre)」に、「その他」は「周縁(Periphery)」に位置付けられることがほとんどです。

「中心(Centre)」である「西洋」は「周縁(Periphery)」の立場にいる人の声を聴かなければならないし、また、私達は複雑な現実にも解釈・考察の目を向けていきます。
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文化間コミュニケーションにはイデオロギーが付きまとうけれども、それをあまりみんな話そうとしないので、それをオープンに分析し、ディスカッションしていくという立場だと思います。

ネオマルキシズムとポストモダンを足して2で割った感じだなと思いました(本人もそのようなことを言っていました)。

Hollidayは英語圏西洋の教育者が西洋以外の学習者(アジア人など)に対してよくいう(らしい)、「彼らに私達みたいな自主性(autonomy)を期待するのは間違っている。私達は彼らの文化を尊重しなきゃいけない」という発言を例にだします。彼によると、このような議論は、「私達」と「彼ら」を分けることで「彼ら」を「他者化」しており、さらに、「自主性」という普遍的なものを他者が持つ可能性を否定しているので、他者を「見下している(patronising)」(p.14)と言っていました。

こういう本があることは意味があると思いますし、彼の主張を否定する気もないのですが、正直、読んでいて綺麗ごとを話している感が否めなかったです。一章を読んだ限りでは、彼のこの「critical cosmopolitan approach」自体も彼の言う「理想化された自己」のディスコースに組み込まれる気がしてしまいました。