昨日の記事の続きです。
- Kramsch. C (2000). Teaching language along the cultural faultline, In Lange, Dale L.
Paige, R. Michael (eds). Culture As the Core: Perspectives on Culture in Second Language Education, p. 19-35
昨日の点を踏まえ、「文化1」と「文化2」の視点をどちらも知り、さらにそこから「第3の視点(third perspective)」を育むことが言語教育では必要とはといい、以下の4つの段階を挙げています。
- ある事象について学生の視点が育まれた状況を知る(explore the context of our students’ responses):ある事象についてどうしてそう考えるのか、自らの考えについて内省するということだと思います。
- その事象について他文化がどう認識しているかを知る。(上記の図のC2、C2’)
- いかに自文化(C1)のフイルターを通して他文化(C2)を理解し、また他文化(C2)も他文化(C2)のフィルターを通して自ら(C1)を見ているかを知る(上記のC1’とC1″、C2’とC2″の関わり)
- 対話を通して別の教え方を探る。(第3の視点を育むということかなと思います)
以下は私の理解した範囲で、この教授法について考えてみたいと思います。
アメリカの大学などでは、教授のことをファーストネームで呼ぶことが多く、それについて抵抗を覚える日本人の留学生もいるようです。この例をもとに、クラス内でどういうアプローチをとれるかを考えてみると、
- なぜ自らが抵抗を覚えるのかについて内省する(自分の生まれ育った環境では、教師は「~先生」と呼ぶものだと育ってきたなど)
- ファーストネームで呼ぶことについてアメリカではどう認識されているのか知る(フレンドリーに聞こえる、教師との距離が近づいていい等)
- ここはいまいちよくわかりませんが、アメリカに対するイメージが往々にして日本人論の裏返しである場合があることなどを話し合うということでしょうか。。
- この自文化・他文化というのも固定されたものではなく、様々な考えが含まれており、状況によっても変わり得るものなので、対話を通して、実際に自分がどういうときにファーストネームで呼ぶか(呼ばないか)等を考える。ということになるのかなと思います。
Kramschの論文の興味深いところは、「文化」というのが、ある「事実」や事実に対する話し手・聞き手の認識だけにとどまらず、「事実」について、ある「文化」ではどう語られてきて、どういう価値観が付与されているのかなどにも注意が向いていることだと思います。
今回の論文の内容は、以下の本と似ている論点も多かったので、興味がある人はこちらも読むといいかなと思います。
- Kramsch, Claire. Context and culture in language teaching. Oxford University Press, 1993.
ただ、Kramsch自身が自らの提唱した「第3の視点(third perspective)」や「第3の場所(third place)」について最近の本では批判しているようですが・・。