バイラム(Byam)については何度かこのブログでも紹介しています。
バイラムは1997年に以下の本で文化間コミュニケーション能力のモデルを提唱しました。
- Byram, Michael. Teaching and assessing intercultural communicative competence. Multilingual Matters, 1997.
その後も、シティズンシップ教育など言語教育を通していかに積極的に社会・政治参加する市民を育成するかを研究しています。
- Byram, Michael. From foreign language education to education for intercultural citizenship: Essays and reflections. Vol. 17. Multilingual Matters, 2008.
今回はそのバイラムの以下の短い論文を読みました。
- Michael Byram (2014) Twenty-five years on – from cultural studies to intercultural citizenship, Language, Culture and Curriculum, 27:3, 209-225
この論文は25年の外国語教育における異文化教育について振り返るものでした。
仔細なところですが、p. 221で、バイラムは、「文化」というと近年では「本質主義」として批判を受けることがあるといっています。
本質主義とは、ある民族・国の人などのカテゴリーには本質的な特徴があり、その特徴は変わることがないと考える立場です。例えば「日本人は礼儀正しい」というと、「礼儀正しい」という特徴は日本人には本質的なもので自然に備わっているものとみなす立場です。
逆に、非本質主義(non-essentialism)とは、こういう「本質主義」を批判し、「日本人は礼儀正しい」といってもそうでない人もいて、「礼儀正しい」というのは自然の法則のように本質的に「日本人」に備わっているものではないという立場です。また、「日本人」というカテゴリーそのものについても「誰が日本人なのか」と疑問を投げかけます。
ただ、非本質主義も、文化研究に対する安易な批判道具になることが多々あり、ただの理想主義なのではないか、自己満足なのではないか、(そうでない人に対して)上から目線で話しているのではないかなどの批判もあるようです。
バイラムは、以下のGeertz(ギアツ)(1975)の本を引用して、文化とは「webs of significance」(意味の網(?))とみなしていると言っていました。
- Geertz, Clifford. The interpretation of cultures: Selected essays. Vol. 5019. Basic books, 1973.
いろいろな要素・意味が絡み合ってできている(つまり、一つの本質があるわけではない)ということなのかなと思いますが、いまいちよくわかりません。1975年のギアツの本をまた読み直してみたいと思います。