メトロリンガリズムについての尾辻(2011)の日本語の論文を読みました。

この前紹介したmetrolingualism(詳しくはこちら)ですが、著者の一人のOtsuji(尾辻)の日本語の論文を読みました。

  • Pennycook, Alastair, and Emi Otsuji. Metrolingualism: Language in the city. Routledge, 2015.

今回読んだのは以下の論文です。

  • 尾辻恵美 (2011). メトロリンガリズムと日本語教育:言語文化の境界線と言語能力. 『リテラシーズ』9, pp. 21-30. accessed on March 2015 from http://literacies.9640.jp/dat/litera09-3.pdf

前読んだ論文(詳しくはこちら)と似たような論点でしたが(ただし日本語教育に焦点を当てていました)、日本語で書かれたこともあってか読みやすかったです。

知らなかったのですが、「メトロ(metro)」という接頭語は、何かを生み出す「場:スペース」という接頭語なのですね。(p.24)

 

メトロリンガリズムが面白いのは、従来はplurilingual competenceなど、個々人の中の言語能力に注目した理論が多かったのですが、個々人の内部の能力でなく、その「場」においてどういったインタラクションが生まれるのかという「場」に注目しているところです。例えば、日英どちらも話せる人同士が、飲み屋で話すと、日英どちらも混ぜて話すことがあるかもしれません。メトロリンガリズムは、どういうことば(その他の非言語資源)が使われるのかは場面によって異なるということを指摘し、その「場」で生まれる言語使用(言語に限らないですが)に注目しているようです。

 

もう1点、個人的にメトロリンガリズム(metrolingualism)がおもしろいなと思うのは、言語の固定性(fixity)と流動性(fluidity)のどちらにも着目しているところです。(ただ、これは2010年の論文では強調されていますが、2015年の本ではそこまで強調されていないようです)

(私の理解ですが)固定性というのは、「日本人は礼儀が正しい」とか「ドイツ人はまじめだ」とか、「日本人=日本語」といったような本質主義的な考え方・言語使用です。逆に、流動性というのは、ドイツ国籍の人とマレーシア国籍の人が日本語と英語を交えて会話するなど、ある慣習的な民族・国・言語の枠組みを超えた言語使用や、「人によって考え方も違う」というような非本質主義的な考え方などを指します。

私はどちらかというと言語の流動性に注目しがちになり、固定性をうまく扱えず、研究では単に批判するにとどまるか、触れずに終わってしまうことがありました。メトロリンガリズムでは、言語使用に関する固定的な「規範」を単に否定するのではなくて、その固定性を人々がどう再生産し、否定し、再構築しているかにも注目しています。この概念に基づくと、translanguagingplurilingualismといった他の概念ではなかなか捉えきれない、固定性も分析対象にいれることもできるのではと思いました。