以下の本の中のJames Collins(1996)のチャプターを読みました。
- Collins, James. “Socialization to text: Structure and contradiction in schooled literacy.” Natural histories of discourse (1996): 203-228.
この論文では、学校の日々の活動自体がイデオロギーの形成の場になっているということを書いていました(少なくとも私はそのように理解しました)。
この論文はシカゴの南の労働者階級の黒人コミュニティ(black community)の小学校での研究でした。この学校の読解のクラスでは成績別に学生を3つか4つのグループにわけ、1つのグループが教師と読解活動をしている間、残りのグループの学生は自習するという形態をとっていたそうです。この論文では、あるクラスの成績の高いグループと低いグループの読解グループの様子を観察していました。
この研究によると、この小学校では皆、アフリカ系アメリカ人英語(Black Vernacular English)を話しているそうで、読解のクラスではその発音を先生が訂正する場面があったそうです。この発音を直すという行為も、「アフリカ系アメリカ人英語は直すべき」というイデオロギーを示しているとは思いますが、面白いのは、皆、アフリカ系アメリカ人英語なのにもかかわらず、成績の低いグループのほうが高いグループのほうより、発音を直される頻度が2倍ぐらい多かったそうです。
また、成績の高いグループは、学生の回答を受けて、さらに教師が話を広げるような形で話が続くことが多かったのに対し、成績の低いグループでは学生の回答から話を広げるということが少なく、テキストの理解に留まることが多かったそうです。
さらに成績の低いグループが読解活動をしているときに、自習している外部の学生からのガヤが入る回数が、成績の高いグループよりも2倍程多く、そこで話が中断したりすることも多かったそうです。
こういった結果から、(かなり言い方は気をつけて書いていましたが)成績が低い学生が単に能力がないとか、しつけがなっていないとか個人に収斂される問題ではなく、学校教育での日々の活動自体がこういった不平等の形成に寄与しているのではないかと言っていました。