少し前にジョン・マーハのmetroethnicityについて紹介しましたが(詳しくはこちら)、これをもとにメトロリンガリズム(metrolingualism)という概念も提唱されているようです。
今回は以下の短い論文を読みました。
- Emi Otsuji & Alastair Pennycook (2010) Metrolingualism: fixity, fluidity and language in flux, International Journal of Multilingualism, 7:3, 240-254.
まだ読んではいませんが、同じ著者が以下のような本も出版しているみたいです。
- Pennycook, Alastair, and Emi Otsuji. Metrolingualism: Language in the city. Routledge, 2015.
上記の論文では、まず、あるシドニーの職場で「日本人」でない人同士が、頻繁に日本語と英語を交えて話しているデータを出し、こういった現状をどう考えていけばいいのかと疑問を投げかけていました。
こういった複数の言語使用は従来はmultilingualism(多言語主義)と呼ばれてきました。ただ、Otsuji & Pennycookは、「multilingualism(多言語主義)」というのはあくまで一つ一つの固有の言語が存在し、言語は数えられるという考え方に基づいたものであると批判しています。
彼らの提唱するmetrolingualismというのは、「日本語」「英語」「日本人」「オーストラリア人」といった言語・文化・民族等の境界線に疑問を呈するものだそうです。metrolingualismでは、様々なバックグラウンドの人たちが都市をはじめとするローカルな場所で、いかに言語を使っているか、また言語を使うことによってどのようなアイデンティティを構築・交渉しているかを見るそうです。また、ローカルな場の考察を通して、人々がいかに、言語・文化・民族・国籍等の境界線を再生産し、またはそれに抵抗し、再構成しているかを見るそうです。
言語の境界線を問題視する点では、この前紹介したtranslanguagingと共通点があると思いました(詳しくはこちら)。
ただ、私の印象では、metrolingualismは、どちらかというとtranslanguagingよりも、言語使用の社会的側面に着目しているように思いました。(translanguagingも勿論社会的側面に考慮していますが、焦点はどちらかというと個人レベルの言語使用のような気がします)。metrolingualismでは、ローカルな場で言語がどう使われているかという「場所」や、こういったローカルな場での言語使用を通したアイデンティティの構築・交渉、またこういった言語使用を通した社会の変化・不変化に重点が置かれているのかなと思いました。
上記の本も時間があれば読んでみたいです。