Blommaert(2005)の「Discourse: a critical introduction」読了。示唆のある本でした。

Blommaert (2005) 「Discourse: A critical introduction」を少しずつ読み進めています。1章から3章についてはこちら、4章と5章についてはこちら、6章と7章についてはこちらをご覧ください。

  • Blommaert, Jan. Discourse: A critical introduction. Cambridge University Press, 2005.

最後の8章はアイデンティティについてでした。

アイデンティティも所与のものではなくて、言説によって作り上げられていくんだという考え方をBlommaertもしていました。

Blommaertはアイデンティティを「particular forms of semiotic potential, organised in a repertoire.」(p.207)と定義していました。「あるレパートリーの中で体系だった、潜在的な記号の特殊な形態」ということで、日本語にすると私にはまったく意味がわからなくなります。

私の理解の範囲では、要するに、関西弁、英語、若者語、丁寧語など言葉・レジスター(ある分野・領域で使われる言葉)の中には、関西弁なら関西弁の単語・文法・ジェスチャーなどの記号体系(言語構造)があるわけですが、その中どれかを選び出して自らのアイデンティティーを作り上げているということだと思います。

ここまでは他の学者とも変わらないのですが、面白いなと思ったのは、Blommaertは今までの議論と関連させながら、そういったアイデンティティを作り上げられるかというのは、アイデンティティを作り上げるリソースを持っているかどうかにかかっていて、持っていないと勿論作り上げることすらできないと言っていることです。そして、そのリソースの分配というのはグローバルレベルで不平等に分配されていると言っています。

私がいくら「クイーンズイングリッシュを話したい」と思っても、「クイーンズイングリッシュ」を話すためのリソースを持っていないので、「クイーンズイングリッシュ」を使ってのアイデンティティは私は作れないということです。

言われてみればそうですが、私の知る限りでは、この点についてはあまり議論されていなかったように思います。
また、Blommaertはアイデンティティについて考えるときにスペースも考える必要があるといっていました。(p.221-)

「スペース」というのはただ単なる場所の名前にとどまらず、文化的・社会的・認識的感情的な意味を持つといっていました。「六本木で働いている」というのと「八王子で働いている」というのでは相手に与えるイメージが全然違うということだと思います。

具体例も多く、内容も興味深く、読み応えのある本でした。Blommaertのまた別の本や論文も読んでみたいです。