前のプラットの記事で人類学者のギアツの「Found in Translation: On the Social. History of the Moral. Imagination」(1983)が引用されていました。読みたいと思ったのですが、残念ながらすぐには手に入らなさそうです。
ちなみにギアツ(Geertz)は有名な文化人類学者です。人類学の手法として「厚い記述(thick description)」を提唱したことでも有名です。
- Geertz, Clifford. The interpretation of cultures: Selected essays. Vol. 5019. Basic books, 1973.
日本語にも翻訳されているみたいです。
- C. ギアーツ著 吉田禎吾他訳『文化の解釈学Ⅰ』 岩波現代選書,岩波書店
上記の本の中の「Thick description: Toward an interpretive theory of culture(pp.3-30)」だけ以前読んだことがあるのですが、今日はまたパラパラと見返してみました。
ギアツによると文化というのは記号論であり、文化研究というのは客観的科学とは違い、記号の意味を探す解釈的なものであるといっています。
ギアツのいう「厚い記述(thick description)」とは、ただ起こった出来事や行動を記述するだけじゃなくて、どうしてそういった行動をするのか、その行動にどういう意味があるのかなどの解釈を含めて「厚く」記述するということです。私が理解した範囲だと、例えば、日本に来た文化人類学者が「お正月にお年玉をあげている」のを見た時に、ただ「お正月にお年玉をあげる習慣がある」と記述するだけではなく、そのお年玉がお正月という行事においてどういう意味を持つのか、またお年玉・お正月は日本社会の中でどういう役割を果たしているのかなども解釈する必要があるということなのかなと思いました。
また、エスノグラフィーにおける記述とは、①解釈すること、②社会的対話(discourse)の流れを解釈すること、③対話(discourse)が消える前に「言われたこと」を救い出し、読める形にすること、それプラス④ミクロな考察(microscopic)であるといっています。(p.20-21)
ここからは私の解釈ですが、つまり、①記述するということには、ある文化の行動・言動の意味を探る、つまりこれらを解釈するということが含まれます。ただ、②解釈というのは、研究者がその文化の外側から、その文化の「客観的事実」なるものを記述することではなくて、たぶんその文化の内側から、ある時、ある場所においてどのようなことが起こり、どのようなことが為され、それがどういう意味を持つのかを丁寧に解釈していくということだと思います。③何もしなければこういう実際にあった事象や対話は消えてしまいますが、研究者はこれを記録し、残していきます。こういったプロセスは④とてもミクロな視点だ、ということだと思いました。といいつつ②のところは、ちょっとこれがギアツの言いたかったことなのかあやふやですが・・・。
「Found in Translation: On the Social. History of the Moral. Imagination」も今度借りてきて読んでみようと思っています。