この本の中のTymoczko(1999)のPost-colonial writing and literary translationというチャプターを読みました。
前の記事で書いたSpivakの論文が出た1990年代あたりから、ポストコロニアル翻訳研究も盛んになります。
あまり詳しくないのですが、ポストコロニアル翻訳研究では、翻訳が植民地化された人々のイメージ(ステレオタイプ)を普及させるのにかなり積極的に関与していたこと、また、翻訳における権力関係などを研究しているみたいです。
- Tymoczko, Maria. “Post-colonial writing and literary translation.” Post-colonial translation: Theory and practice (1999): 19-40.
今回読んだTymoczkoの論文では、ポストコロニアリズム文学の作家の「書く」という行為は、文化を翻訳するということ、そして文化・言語のギャップが問題になるという点で、翻訳と似ているのではないかと言っていました(p.22)
Tymoczkoによると、ナイジェリア出身のチヌア・アチェベやケニア出身のグギ・ワ・ジオンゴの作家は英語で作品を書いていますが、あえてイボ語やキクユ語の言葉を訳さずにそのまま入れたり、また文化的行事についてはすごく長い説明をしたりと、国際的な読者を意図した書き方をしているそうです。
また、グギ・ワ・ジオンゴに関しては、途中から母語であるキクユ語で書くようになります。グギ・ワ・ジオンゴ自身が説明していたそうですが、自らの言語選択には、自文化とのつながりを深めたいという彼の思い、また言語は平等に扱われるべきという自らのイデオロギーが関係しているそうです。(p.32-33)
確かに「自文化」のことを知らない他者に対して書く小説というのは、翻訳と似ている面は多いにあるなと思いました。
昔アチェベのThings Fall Apartは読んだことがありますが、そんなこと全く考えずに読んでいました。
- Chinua, Achebe. “Things fall apart.” Ch. Achebe (1958): 1-117.