Byram(Michael ByramではなくてKatra Byramです)とKramschの論文を読みました。Kramschは文化教育で有名な学者で、以下の入門書をはじめ、いろいろ文化教育関係の本を出しています。
- Kramsch, Claire. Language and culture. Oxford University Press, 1998.
今回読んだのはこの論文です。
- Byram, Katra and Kramsch, Claire (2008) “Why Is It So Difficult to Teach Language as Culture?” German Quarterly 81 (1): 20–34
最近は文化間能力というのがはやりで、1983年創設のアメリカの言語教育研究学会であるMLA(Modern Language Association)も2007年に高等教育の外国語教育についての報告書を出し、外国語教育の目的とは、”translingual and transcultural competence”の育成といっています。つまり、言語間・文化間で生きる力を養うことであり、それには言語能力だけでなく、ある言語が歴史的・政治的事象をどのように捉えているか、自分の言語との違いは何かなど、言語を批判的にみる力や、解釈する力、歴史的・社会的な意識向上などが挙げられます。
ただ、Byram and Kramschはドイツの近代史の中のベルリンの壁や東ドイツについては様々な意見が存在し、人によって捉え方が違うのでをクラスで扱うのは結構難しいといっていました。論文でも3つのクラスの例を出してその難しさを説明していました。
日本の場合だと、韓国語のクラスで「竹島」の話や、中国語のクラスで「南京大虐殺」の話をしても、まず「竹島」なのか「独島」なのかなど呼び方からはじまり、その他諸々の歴史的見解の違いなどからあまりに問題が多すぎて扱うのが難しいということなのかなと思いました。
この論文の3つ目のドイツ語クラスの例が結構おもしろかったです。著者の1人のByramは、第二次世界大戦からのドイツの文化・社会・歴史等の一次資料を掲載した教科書を使用して、ドイツ語のクラスを教えていたのですが、学生は教科書の中の東ドイツの資料は「プロパガンダ」とみなし、西ドイツの似たような資料は「情報」としてとらえることが多かったそうです。
学生が自分たち自身の考えも歴史・イデオロギーに影響されていることに気づいていなさそうだと思ったByramは、コースの終わりに、その学生の解釈そのものをクラスのテーマにすることにしました。具体的には、教科書の中の1つ1つの資料を分析するのではなく、教科書自体を分析対象とし、教科書がどういうテキストを扱い、また扱っていないか、教科書のつけたキャプションがテキストの理解にどう役立っているかを分析させました。また、学生自らがこういった教科書の資料の提示の仕方についてどう思うかを言わせたらしいのです。そうすることによって、(他者を理解するというよりは、)自分たちが他文化を語るときの思い込みのようなものを認識させようとしてみたといっていました。
クラスでないとこんなことを議論する場もなかなかないでしょうし面白い例だなと思いましたが、クラスのデータが教師の日記だけだったのが勿体ないなと思いました。この授業を通して学生はどう思ったのか、具体的にどんなディスカッションが為されたかなど気になりました。